子どもを持つことについて
誰もが、子どもを持つかどうかを自由に決められたらいいと思う。老後の面倒を見てもらうために産むのでも、育てるお金がないから諦めるのでもなく。
ここには、まだ変えられることがたくさんある。それを、今のままじゃいけないと思っている人に見てほしい。でも、そんなことをするのは危ない、理解できない、と言う人も多い。
その気持ちも分かる。建国からまだ百年もたっていない。せいぜい数世代だ。今は腹いっぱい食べられて、暖かい服も着られる。それだけでもずいぶんましになった。だから「人民の公僕」だか「お偉方」だか、呼び名は何でもいいけれど、あの人たちが少しくらい一線を越えても我慢できる。だって、もう食べられるようになったのだから。
私だって、ずっとトウモロコシ粉の蒸し饅頭を食べていられる。でも一度、白い小麦粉の饅頭を食べてしまったら、前みたいに喜んでトウモロコシ粉の蒸し饅頭を食べるのは難しい。喉に引っかかるようになる。
親なら考えてほしい。よその子は白い小麦粉の饅頭やパンを食べ、牛肉まで食べている。自分がもっと金を貯めて大きな家を建てたいからといって、自分の子の目を潰していいのか。よその子が何を食べているか見えなくして、トウモロコシ粉の蒸し饅頭を安心して食べさせるために。
子どもは小さいだけで、馬鹿じゃない。家のことは、家族に隠さず、きちんと話してほしい。
大きな家を建てるのは、外の風や霜、雨や雪をしのぐためだ。今は大雨が降っていなくても、その日のために金を貯める。それは分かる。家族みんなでトウモロコシ粉の蒸し饅頭を食べて、家を建てようというのも分かる。でも、酒臭い息をさせて、口元には油、歯の隙間には肉を挟んだ親が目の前に立ち、「自分は食べないよ。蒸し饅頭はお前たちにもっと食べさせてやる」と言うのは、何なのか。
子どものひと月の生活費は五十元なのに、隣の家へのご祝儀には数千元を包む。
子どもが自分の家で、日に焼けたよその子に殴られても、親はまず自分の子を殴る。
よその子が遊びに来ると、ごちそうを全部出してもてなす。自分の子は横でよだれを垂らしている。
この家にあるものは、私たち子どもが稼いだものじゃないか。親は黙って取り分を受け取っていればいい。家のことは何もかも親が決める。文句を言うことさえ許されない。親の威厳を守るために。
なのに、いちばん豊かなあの家では、子どもが親を名前で呼び、対等に話せるのはどうしてだろう。
親が一人で決めるからこそ、家族が一つにまとまって大きなことができる、何でもうまくやれる。そう言われれば、私たちも信じたい。でも親だって、酔っ払う日もあれば、寝ぼけているときもある。いつだって正しいわけじゃない。
私はずっと、親が毎日飲み食いして遊び歩き、その日の家の収入の半分を使ってしまっても、大したことじゃないと思っていた。私たちがもっと稼げばいい。百の半分は、五十の半分より多い。そうだろう? ところが今は、稼ぐ子どもが減って、親になる人が増えた。使う金も増えた。もう足りなくなってきた。
北のほうの部屋で親をやっている人たちの中には、その部屋で稼ぐ金だけでは自分たちの暮らしも賄えず、南東のいくつかの部屋の子どもたちに養ってもらっている人までいる。
それだって、子どもたちが稼ぎ続けているなら、まだ希望はある。先のことも考えられる。
でも親のやることがあまりにひどくて、よその子が肉を食べているのを見た子どもたちは、もう蒸し饅頭を飲み込めなくなっている。
稼ぐのを少し控えたら、親も私たちを気にかけてくれるんじゃないか。懐にしまい込んだ金で、少しくらいおいしいものを買ってくれるんじゃないか。そう考える子もいる。
私もその一人だ。私が子どもを持たないのは、親に目を潰され、口を塞がれたとき、噛み返してしまうのが怖いからだ。
子どもがいること、家族がいることは幸せだし、私も憧れている。ただ、もっと多くの人が、よその子が肉を食べるのを見ても、よだれを垂らさずに済むようになってほしい。
家の戸を閉めて、肉を食べる子が見えないようにしたうえで、「世界でいちばんうまいのは、トウモロコシ粉の蒸し饅頭だ」と言い聞かせるのではなく。